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東京高等裁判所 昭和52年(う)1781号 判決

被告人 猪狩健、遠藤敏勝

主文

本件各控訴を棄却する。

理由

弁護人の本件控訴の趣意は、弁護人鵜飼良昭、同宇野峰雪が連名で提出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官提出の答弁書に、検察官の本件控訴の趣意は、東京高等検察庁検察官検事斎藤吾郎提出の横浜地方検察庁検察官検事岩田農夫男作成にかかる控訴趣意書に、これに対する答弁は、弁護人提出の答弁書に、それぞれ記載してあるとおりであるから、これらを引用し、これに対して当裁判所は、次のように判断する。

一  弁護人の控訴趣意について

所論は、原判決中被告人猪狩につき原判示戸塚郵便局米本享資集配課長に対する傷害を認定し有罪とした部分には、理由そご又は判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認があると主張し、その理由として要するに、(一)原判決は「罪となるべき事実」の項において、被告人猪狩は、「自己の両手の拳(控訴趣意書には「挙」とあるが「拳」の誤記と認める。)を胸の前で合わせ、両肘を上げて横に振り、これを左右に振りながら、右米本(中略)に対し『何をするんだ、管理者は暴力を振るうのか』などと言つて詰め寄り、その姿勢のまま左方に体を引き、素早く右肘を高く突き上げて前記米本の右顎部を一回突く暴行を加え、よつて右米本に対し、全治約一〇日間を要する左顎関節捻挫の傷害を与えた」旨認定しているが、右認定の被告人猪狩の行為は、両手の拳を胸の前で合わせ、これを左右に振りながら詰め寄り、その姿勢のまま左方に体を引き、素早く右肘を高く突き上げるという通常では考えられない程不自然極まるものであり、同被告人と米本課長との身長差(同被告人の方が約七センチメートル低い)を考えるならば、右認定のような不自然な姿勢で右認定程度の傷害を惹起する暴行を加えることは、経験則上ほとんど不可能である、(二)本件傷害は、当局側が休職処分を受けた被告人猪狩及び原審相被告人遠藤敏勝の就労闘争を中止させるために仕組んだ虚構のものであり、当局側が暴力事件をでつち上げる目的を持つていたことは、あらかじめ管理者を被告人らの入室を阻止する係とその際の暴力事件の有無を現認する係とに分け、現認係をしてことさらに被告人らの行動を観察させ、メモを作成させていた事実からも容易に推測される、(三)被告人が原判示の暴行を加えた事実はなく、原判決が右事実につき挙示している証人米本享資、同文田十吉、同海老沢静雄、同万木寛の各供述は、いずれも労使紛争の一方当事者に属する者(万木寛は郵政省直轄の逓信病院の医師である)の供述であり、かつそれぞれ矛盾や不自然な部分があつて信用性がない、(四)原判決中の「証人万木の供述によれば、直接打撃を受けた右顎部には、発赤、腫脹等の外見的所見は認められなかつたが、診察の結果によると左顎関節部に著名な圧痛があり、また歯のかみ合わせもよくないところから、医学的には本件左顎関節捻挫の傷害は発生可能なものとして十分是認できることを臨床医としての経験ないし専門的知識に基づき供述していることが認められる」との説示部分は、万木医師の診断の根拠が圧痛という患者の主観的愁訴に基づくものであり、診断内容に本人の作為の入りこむ余地が大きいこと、同医師はあくまでも「医学的にはあり得る」と言うのであり、現実問題として本件のごとき場合が起こり得るかどうかについては全く触れていないこと、原判示程度の傷害を受けたにしては、当初から発赤などの外見的異常が全く無かったことも不可解であることなどを無視又は看過している、というのである。

そこで検討すると、(一)所論は、被告人猪狩の原判示の暴行行為が通常考えられない程不自然なものであるというが、さ程不自然なものであるとは考えられず、また、被害者と同被告人との間に所論主張程度の身長差があるとしても右暴行を行うことは十分可能と認められる。(二)所論も認めているように、原判示のとおり、休職中の被告人猪狩と前記遠藤は本件発生に至るまで連日就労しようとして仲間の組合員と共に前記郵便局集配課事務室に赴き、入室しようとしては管理職員らに阻止されるという状態が繰り返されていたのであるから、このような状態のもとにおいて、当局側が管理職員を入室阻止の係と暴力事件現認の係とに分け、郵便局の執務体制の保持上被告人らのいわゆる就労闘争に備えることにしたのはむしろ当然のことであつて、その故に当局側が暴力事件を、所論がいうようにでつち上げる目的を有していたものと推測するのは早計というのほかない。(三)本件傷害が虚構のものではなく、また、所論指摘の各証人の供述がいずれも判示認定に添う限り十分信用できるものであることは、原判決が「弁護人らの主張に対する判断」の項一において詳細かつ適切に説示しているとおりである。(四)万木医師の診断の主たる根拠は圧痛という患者の訴えであるとしても、同医師は、患者はほかの部位を押しても痛みを感ぜず、ある部分だけは何回押しても痛みを訴え、圧痛が非常に限局されていることと、素人が右側を殴られて痛みを訴える場合には右側の痛みを訴えるのが通常であるが、患者は逆に左側の関節の痛みを訴えたことからして、患者の訴えは非常に真実性があり、医学的にも妥当性があると判断した旨証言しているのであって、右診断内容に患者の作為が入つているとは考えられず、また、同医師の供述の全体(速記録添付のカルテの写しをも含む)をし細に検討してみると、同医師が本件傷害につき単に「医学的にあり得る」というだけでなく、現実に起こつたこととして供述しており、かつ、発赤などの外見的異常が無かつたことも特に異とするに足りないことは、おのずから明らかである。

以上検討したとおりであつて、被告人猪狩に関する原判示事実は、原判決挙示の証拠によつて優に認定できるのであつて、記録中のその余の証拠及び証拠物によつても、原判決に所論主張の理由のそご又は事実誤認があるとは考えられない。論旨はいずれも理由がない。

二  検察官の控訴趣意について

所論は、原判決中建造物損壊に関する部分の事実誤認ないし法令適用の誤りを主張するものであり、要するに、原判決は、被告人両名に対する建造物損壊の公訴事実につき、その取調べにかかる証拠に基づいて公訴事実と同旨の事実を認定しながら、被告人らの本件ビラ貼り及び落書きの行為は建造物損壊罪を構成するものではないと解するのが相当であるとして、被告人らに対し無罪を言渡したが、これは事実を誤認し、その結果刑法二六〇条を適用しなかつた法令の解釈適用の誤りを犯したものであり、原判決は破棄されるべきである、というのである。

そこで検討すると、原審取調べにかかる証拠によれば、被告人らが公訴事実記載のとおりのビラ貼り及び落書きの行為を行つたことを認めるに十分であるが、右行為は建造物損壊罪を構成するものではないとした原判決の判断は、結局、正当として是認することができるのであつて、当審における事実取調べの結果によつても、原判決に所論の事実誤認ないし法令適用の誤りがあるとは考えられない。以下、主要な論点についての判断を示すこととする。

(一)  ビラ貼りによる透明ガラスの効用の減損について

所論は、原判決は、「本件ビラが直立した人間の眼高位置付近に貼付されたため、公衆室内外の見通しが害され、同室内のガラス部分からの採光が若干害されたことが認められる。」としながらも、「右貼付個所は前述のように本件建物の外壁として利用されている部分であつて、特に内外の見通しが必要である場所とはいえないし、採光阻害についても、その程度はガラス部分から太陽光線が差し込んでいる状態の時にレースのカーテンをかけた程度に暗くなつたというもので、同公衆室には螢光灯が設置され、日中も常にともされていることもあつて執務等に差し支えるものではないのであつて、右のほか、ビラ貼り行為によつて本件建物の効用が減損したと考えられるような事情は(中略)存しない。」と判示しているが、右判断は誤りであるとしその理由として、本件建物一階公衆室の外側を、特に透明のガラスで囲つたのは、一般の人が多数利用する郵便局という特殊建物であるため、同室内外の見通しを保ち、外部から公衆室内の様子を見通し得ることによつて、歩行者や利用者に親近感を与え、局舎に入りやすくするという効用と自然採光の目的のため設計され設備されたものであるから、公衆室は内外の見通しを必要とする場所というべきであるところ、本件ビラが人の眼の高さの位置に貼付されたことによつて外部からの見通しができなくなり、透明ガラスの効用が全く阻害されるに至つたことは明らかであり、また採光阻害については、公衆室の性質上、郵便局員の執務以上に一般利用者の読み書きに与えた影響を重視すべきであるところ、本件ビラのために公衆室内の利用者の読み書きに障害があつたものである、と主張する。

しかしながら、原判示戸塚郵便局庁舎(以下、本件建物という。)の概要及び本件ビラ貼付の状況は、原判示(原判決一一枚目表五行目から一四枚目裏五行目まで)のとおりであるところ、本件建物一階公衆室の外側を透明のガラスで囲つた目的は、所論のとおり、利用者等に親近感を与え、局舎に入りやすくする効用等のためであるとしても、右公衆室を特別に内外の見通しが必要な場所であるとし、この点に関する原判決の判断を誤りであると断定するのは相当でない。また、本件ビラの貼付状況、特にその貼付場所は右公衆室の正面外側の、高さ二・三メートル、幅一・〇メートルのはめ殺しガラス窓一四枚及び同型のガラス扉二枚から成る部分であり、本件ビラ(わら半紙を縦半切りにしたもので縦約三六センチメートル、横約一二・五センチメートル)は右のガラス窓一一枚及びガラス扉二枚の中央部分にガラス一枚につき二枚ないし一二枚を二段(二枚のところは一段)にして貼られており、ビラの占めている部分はガラスの約三分の一に当たる中央部分で、ガラスのその余(上下)の部分は空いているし、ビラの位置は直立した人の眼の高さくらいであるとはいえ、各窓及び扉の左右の枠まで隙間なく貼られているわけではなく、したがつて、いずれの窓及び扉もビラと枠との間あるいはビラとビラとの間からも外を見通すことができる状態であり、ビラによる採光阻害も、原判示のとおり「ガラス部分から太陽光線が差し込んでいる状態の時にレースのカーテンをかけた程度に暗くなつた」というものであり、また一般利用者の読み書きにいくらか障害があつたとはいえ、それも利用者の一人が字を書こうとしてペンをとつたところ、「眼鏡がくもつているのか、書きにくいなと思つて窓を見たら、ビラが貼つてあつた。」という程度のものであることを考えると、いまだ本件ビラ貼りによつて本件建物の効用(後記美観の点を除く)を減損したとは認め難く、この点に関する原判決の判断に誤りがあるとはいえない。

(二)  落書きによる柱及び塀の物理的損傷の有無について

所論は、原判決は、本件落書きの行為が本件建物を物理的に損傷したとはいえない旨判示しているが、右判断は誤りであるとしその理由として、(1)本件落書きに使用した赤色スプレーは油性エアゾール吹付塗料であるため、水洗ではもちろん除去することが不可能であり、薬品を使用すれば既存の塗料(こげ茶色、油性塗料)も同時に剥離することとなり、削り取るとすればコンクリート柱等の地肌をはがすこととなるので、本件落書きの文字自体を除去するにはコンクリート柱等に物理的変更を加えなければならないこととなり、その表面に別の塗料を塗つて消去する方法があつたとしても、物理的に毀損したものと同視されるべきである、(2)本件においては、落書き部分の塗料を取るためコンクリート柱及び塀の表面を削つているが、それは証拠保全の必要上当然の措置であつて、本件落書き行為に必然的に随伴する結果であるから、その結果の必然性を考慮すれば、実際にも物理的損壊があつたものというべきである、と主張する。

しかしながら、(1)本件落書きの状況は、原判示(原判決一四枚目裏六行目から一七枚目表最終行まで)のとおりであり、特に柱に対する落書きは、コンクリート製の柱二本の道路側に面した部分の横幅一杯に、縦は地上から約二メートルの高さにわたつて、合成樹脂系の赤色カラースプレーを用いて向かつて右側柱には「文田アヤマレ!」と、向かつて左側柱には「不当処分粉砕」と書いてあり、塀に対する落書きは、コンクリート製の塀の全面積の約三分の一に当たる部分に右柱の落書きとほぼ同じ大きさの文字で同じような書体でラツカー系赤色カラースプレーを用いて「不当処分粉砕」と二か所に書いてあること、これらの落書きを消去するには、柱や塀に塗られてあると同色のペイントを落書きの上から二度塗り重ねるのが最も簡単かつ効果的な方法である(業者に依頼してこの方法によると、その作業時間は、右柱及び塀のほか右塀の前面に置かれてあるコンクリート製ゴミ箱及びその蓋に書かれた落書きの消去をも含めて約四時間、経費は七、〇〇〇円ないし八、〇〇〇円を要する程度である。)ことが認められるから、右落書き行為自体によつて本件建物を物理的に損傷したとはいえず、また物理的に損傷したと同視することもできないというべきである。(2)本件においては、現実には右の消去方法によらず、落書きに用いた塗料を削り取つて保存しておくため、右柱及び塀の表面の落書き部分を一部削り取り、その跡を補修し塗装するという方法がとられたのであるが、この方法が所論のごとく証拠保全の必要上当然の措置であつたものとしても、前記のとおり、右柱及び塀を損傷することなく落書きを消去する別の方法があつたのであるから、被告人らの落書き行為が実際にも本件建物を物理的に損傷したというのは相当でない。原判決のこの点に関する判断は正当である。

(三)  美観の減損について

所論は、原判決は、本件ビラ貼り及び落書きによつて本件建物の美観をその本来の効用を減損させたと同様に評価すべき程著しく減損したものとは認めることができない旨判示しているが、右判断は誤りであるとしその理由として、(1)本件ビラ貼りについては、〈1〉貼付されたビラは一二五枚という多数で、あたかも縦約七二センチメートル、横約一三メートルの長大な書きなぐりのビラを貼り付けたと同様な効果を生じ、見る人をして異様さを感じさせるものである、〈2〉ビラの内容は他人を誹謗するものがほとんどで見るからに不快、嫌悪の情を起こさせるものである、〈3〉ビラの貼り方は不揃いで見苦しい、〈4〉ビラの除去には清掃作業員二人が約二時間をかけ、費用としては金四、四二五円を要しており、原状回復が容易であるとはいい難いと主張し、(2)本件落書きについては、〈1〉落書き場所は建物の本体部分であり、かつ公道に面した目立つ場所である、〈2〉柱の落書きは一見して強烈な印象を与えるものである、〈3〉コンクリート塀も本件建物と一体となり、美観保持の対象となつていたものである、〈4〉落書きの除去は比較的容易であるとはいい難いと主張し、結局本件ビラ貼り及び落書きは本件建物の美観を著しく害するものであつて、建造物損壊に当たると解するのが相当である、というのである。

しかしながら、本件ビラ貼り及び落書きの状況並びに本件建物の概要は前記(原判示引用部分を含む)のとおりであつて、これらを基礎として美観の減損程度につき詳細に説示したうえ、結局、所論指摘のとおりの判示をしている原判決の判断は、正当として是認することができる。所論はいずれも失当である。

以上検討したとおりであつて、建造物損壊に関する論旨はいずれも理由がない。

なお、検察官は原判決中傷害について有罪とした部分に対しても控訴の申立をしているが、これに関する控訴趣意としてはなんらの主張もないから、右控訴は結局その理由がないことに帰する。

三  結論

よつて、刑訴法三九六条により弁護人並びに検察官の本件各控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 向井哲次郎 山木寛 中川隆司)

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